この絵かきの活動の目的は、
●いつかは変りゆく地元の地域の風景を、少しでもいいので地域の人、地域に関わる人に覚えていてもらうこと
●時々、絵やデザインで地域の活気を後押しすること
です。
この目的には、東日本大震災から始まるここ10年の作者自身の体験が大きく関わってます。
長文ですが、ご覧いただければ幸いです。
今、大切にしている価値観や、見てる景色、近くにいる人は、明日も同じ姿を留めているとは限りません。町の風景や人や世界が変わることは当然であり自然なことです。今しかない生活の営み、風習、環境が織りなす「風景」を描いて残し、この姿があったことを、地域の人や関わった人、一度でも風景を見たり地域の風景の一部になって生きている人たちに、その景色を覚えていてほしいのです。
実際の風景を見たときと同じような、言葉にできない感覚や記憶を起させる地元の絵をしたくて絵を描いています。
2011年の震災の時見た風景は、地面が割れてマンホールが筒ごと飛び出し、電線が大縄跳びのように回り、家がうねり、地響きと轟音が止で自分と家族と家の死を実感したものでした。数日後、放射能が飛んでいるから外に出るなと報道され、地元はフクシマとして世界中から好奇の目に晒され、命・物・価値観・土地、どんな堅牢なものも数十秒数日で簡単に壊れたりする事を実感しました。
その後通った大学で、文化について学ぶうちに、風景や文化は生き物のように姿形を変えていくものだと学びました。
人、生活、歴史、風景、常識や価値観、それら文化は生き物で、ゆっくりだけど、時とともに刻々と姿形を変えるもの。生き物だから、変化して成長し、いつか亡くなる。それまでの姿がなかったことになる訳ではなく、成長が積み重なっているだけだと思いました。
震災は悲しい事の方が多いけれど、すべての人が福島の2011年3月の全てを否定しているように見えました。故郷が選んだ歴史を否定したくなくて、福島のこの「生き様」を周りの人にも忘れないでほしいと思いました。
この考えが「地域の今の姿」を風景として残す今の活動に繋がってます。
もう一つ大きく関わってるのが、震災後の福島の在り方です。
震災から数年後、学生の時に県内のあるお店の水彩画を描いたことがきっかけで、そのお店との卒業後も続く長い交流ができました。歴史あるお店で、地域づくりにも力を入れる人たちでしたが、のちに風評被害が大きな要因でお店が閉店されていることを知りました。
私や後輩たちに「ご飯食べていきな」と言ってくれた裏で苦しんでいたのに気づかなかった事、長い時間をかけて築いた人や文化のつながりを絶たれた無念を思うと今でもやり切れません。
歴史と文化を継ぎ、地域を盛り上げようとした人たちの力になりたかった、お世話になった恩返しを沢山したかった、絵やデザインが上手になったら、この人たちの仲間になりたいと思う憧れでした。震災から時間が経って、なぜ一生懸命に生活を営み地域を活気づけた人たちがこんな目に遭うのかと今でも憤りを感じます。
今、水彩で描くのは、表現のためだけでなく、初めて自分の作品を置いてくれた地域のお店の記憶を残すため、今度こそはちゃんと地域の力になるという思いからです。
突然、故郷がある日から世界中から好奇の目に晒され、食べ物は「核食」と言われ、果ては美味しいと試食した果物を福島産と聞いた途端吐き捨てられたことすらあったそう。この10年で理解を示してくれる人がたくさんいる一方、理不尽なそれらを私は未だスルーできませんし、きっと一生許しません。農家、商店、行政、色んな皆が復興と風評被害払拭に、たくさん労と財と気を10年つぎ込んでなお、地元で続いてきた、守ってきた職、土地、繋がり、生活、歴史を寸断されてひどいレッテルを貼られる。
今まであった地元の景色は一瞬で変わり、2度と同じには戻らない。そして時がたてば地元の人にすら忘れられてしまう。
そんなことが、福島であったけれど、誰でも故郷が明日そんな同じ状況にならない保証はないと思います。
今の地域に何かあった、どんな人や生活、風景があったかその後の地元に残せれば、未来のこの土地の人も知って覚えていられる。それが何かにつながる。そうしたことが「風景を覚えてる」ということだと思います。具体的で正確な記録ではないけれど、地元のいつかどこかにあった、なんでもない「とある」風景を残せる、そんな絵やデザインで地域の小さな力になりたく、ものづくりをしています。